日本第2位の巨大古墳である大阪府羽曳野市の誉田山古墳(伝応神陵。墳丘長416m)は、「雄略紀」9年7月条にみえる誉田陵(ほむたのみささぎ)で、ホムタ(応神)天皇の陵とみられているが、築造年代はTK73型式期(490年代後半〜500年代後半)と推定される(表A)。体積約113万立方mの誉田山古墳(伝応神陵)を造るにも約17年弱かかるとみられるので、480年代〜490年代に築造が開始されたと考えられる。

『日本書紀』は「仲哀紀」と「応神紀」で応神が200年の庚辰年に生まれたとしているが、応神も数え年50歳の時に寿陵として誉田山古墳を築造し始めたと考え、480年代〜490年代から50年さかのぼった頃の庚辰年を求めると、440年が庚辰年である。

そこで、応神は440年(庚辰年)に生まれ、数え年50歳になった489年に、寿陵として誉田山古墳を造り始めたと推定される。とすると、誉田山古墳(伝応神陵)は、505年頃に完成した可能性があり、499年から505年頃までは、応神の寿陵の誉田山古墳(伝応神陵)と継体の寿陵の大山古墳(伝仁徳陵)の工事が同時に行われたことになるので、在位年代からみて応神は倭王武と同一人であること、応神(武)の後継者が継体であること、および、『記紀』にみえる応神と継体の間の、仁徳・履中・反正・允恭・安康・雄略・清寧・顕宗・仁賢・武烈の10人の天皇はみな実在しなかったことが分かる。

森浩一氏は、1981年に『巨大古墳の世紀』で、誉田山古墳と大山古墳の年代が6世紀に下がる可能性を指摘し、「河内の巨大古墳を考えるとなると、騎馬民族征服王朝説を無視できない」と書いてる。私はこの森氏の見解にヒントを得て、1980年代後半に、誉田(ほむた。応神)天皇のホムタが百済王子昆支(こんき。こむき)のコムキの転化と考え、応神=武=昆支と推定した。

『日本書紀』は506年に武烈(在位499〜506)が死亡し、508年に武烈を傍丘磐杯丘(かたをかのいはつきのをか)陵に葬ったと書いているが、武烈は架空の天皇だから、応神(昆支・武)は506年に67歳で死亡し、508年(継体2)に誉田山古墳(伝応神陵)に葬られたとみられる。

律令政権は、応神=武=昆支であることを隠すために、『記紀』で応神の在位年代を繰り上げたうえ、前述の10人の天皇を創作したわけだが、このことを知らずに、『日本書紀』にみえる10人の天皇の在位年代や、『古事記』の「崩年干支」によって、倭の五王の比定が行われているため、比定される天皇の在位年代と、中国の史書の記事に基づく倭王の在位年代と間に必ず食い違いが生まれる。

「辛亥年」=471年、武=雄略=ワカタケル大王とする通説についていえば、『日本書紀』にみえる雄略の在位年代は456年〜479年だが、『宋書』本紀・倭国伝によると、462年に興が宋によって「安東将軍・倭国王」とされ、478年に武が宋によって「安東大将軍・倭王」に除せられているので、雄略=興=武ということになる。また、「辛亥年」を471年とすると、ワカタケル大王は興ということになる。つまり、「辛亥年」=471年、武=雄略=ワカタケル大王とする通説は、こうした矛盾を無視するという、致命的な誤りを犯しているのである。

ちなみに、森博達氏は、『日本書紀の謎を解く』で、「雄略紀」から「崇峻紀」(大部分)までは唐人の続守言によって、「皇極紀」から「天智紀」までは唐人の薩弘格によって書かれたと述べているが、森博達氏も「辛亥年」を471年、武を雄略に比定しており、この致命的な誤りを犯している。そして、『日本書紀』の複雑精緻な天皇紀の多くが、たった2人の中国人によって短期間に書かれたとする点でも、森博達氏は大きな誤りを犯している。

では、倭の五王の比定は不可能なことだろうか。答えはノーである。

律令政権は、『日本書紀』では、公式には否定した史実を、さまざまな方法で非公式に正確に記録するという、絶妙な記録方法を採用している。例えば、『日本書紀』は公式には倭の五王の存在を否定しているが、第1章以下で述べるように、非公式には五王の在位年代を正確に記録しており、その五王の在位年代は、中国の史書の記事によって推定される五王の在位年代と食い違いがまったくないのである。
 

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