序章 「辛亥年」を471年、武を雄略天皇とする説の誤り


  埼玉県行田市の稲荷山古墳から出土した鉄剣銘文には「辛亥年」「獲加多支鹵大王」などと刻まれているが、「辛亥年」を471年、「獲加多支鹵大王」を雄略天皇、雄略天皇を倭王武とする説が現在定説のようになっている。しかし、「辛亥年」=471年説は、考古学界の多数派の意見にすぎず、稲荷山古墳の発掘を指導した斎藤忠氏は531年説を唱えている(斎藤忠・大塚初重『稲荷山古墳と埼玉古墳群』115頁)。「神の手」を生んだ考古学界の多数派の意見が正しく、少数派の意見が誤っていると判断することは避けるべきである。


 邪馬台国の所在地を大和とする説が現在定説化しているが、これも、考古学界の多数派が、年輪年代や炭素14年代(C14年代)などによって、弥生時代中期末葉(近畿土器編年のW期)の年代を紀元前1世紀まで引き上げ、箸墓古墳のような大型前方後円墳の出現期(近畿土器編年の布留0式期)を3世紀中葉すぎとし、箸墓古墳を邪馬台国の女王(卑弥呼あるいは台與)や男王の墳墓としているためである。


例えば、奈良文化財研究所(奈文研)は、大阪府の池上曽根遺跡の柱根の「伐採年代」をBC52年としており(光谷拓実「弥生時代の年輪年代」春成秀爾・今村峯雄編『弥生時代の実年代』)、国立歴史民俗博物館(歴博)は、炭素14年代の測定結果に基づいて、W期の実年代を「前100年頃〜紀元前後頃」と報告している(春成秀爾その他。「2005年度考古学協会総会研究発表要旨 弥生時代中期の実年代─14C年代の測定結果について─」)。


 しかし、奈文研の年輪年代は、試料の木材の「伐採年代」と、その木材が使用された年代の間の、時には数百年にも及ぶ、大きな時間差をまったく考慮していない。奈文研によると奈良市の元興寺禅堂の木材の伐採年は582年頃だが、この禅堂が建てられた年代は718年頃とされており、問題の時間差は約136年である。また、池上曽根遺跡の柱根を含めて、古代人が巨木を木材として使用した場合、原木が台風などで倒れた年、すなわち「倒木年」と、原木が伐採された年、すなわち「伐採年」とを、現在の年輪年代学では区別することができない。こうしたことをまったく無視して、奈文研は年輪年代だけで池上曽根遺跡の大型建物の年代を決定しているのである。


 また、AMS法(加速器質量分析法)による炭素14年代測定結果も、それほど正確なものではないので、歴博は、奈文研の年輪年代を利用して暦年代を求めているが、前述の大きな時間差を無視している点では奈文研と同じである。
W期を紀元前1世紀とする歴博や奈文研の説は、こうした致命的な欠点をもっているので、地理学・堆積学等の研究成果と大きく矛盾する。


 大阪府の瓜生堂・西岩田・新家・山賀などの低地遺跡では、弥生時代中期末(W期末)から後期にかけて大集落が水没するが、この集落の水没には海面上昇が深くかかわっている(日下雅義「古代の環境と開発」『古代の環境と考古学』)。福井県の水月湖の堆積物を調査した福沢仁志氏は、1996年に「稲作の拡大と気候変動」(『季刊考古学』56号)で、海水準変動グラフを発表した。私は、拙著『百済から渡来した応神天皇』などでこのグラフを紹介したが、このグラフによると、紀元前1世紀中葉には海面は弥生時代では最も低下しており、3世紀中葉には海面は弥生時代では最も上昇している。そこで、W−3期の池上曽根遺跡の大型建物の年代が紀元前1世紀までさかのぼらないこと、瓜生堂などの大集落が水没したW−4期末が3世紀中葉であること、および、W−1〜4期を「前100年頃〜紀元前後頃」とする邪馬台国大和説が誤りであることが分かる。


 邪馬台国大和説は、文献史料を無視するという大きな誤りも犯している。『魏志』倭人伝には、倭人の墳墓について、「棺有るも槨無し。土を封じて冢を作る」とある。箸墓古墳のすぐ近くにあるホケノ山古墳(桜井市。前方後円墳)からは大規模な木槨が検出されているが、大和説は、『魏志』倭人伝のこの重要な記事を完全に無視して、箸墓古墳を卑弥呼の墳墓と推定しているのである。


 箸墓古墳の年代は、次に述べるように、水月湖の海水準変動グラフ、土器の編年、『日本書紀』の記事を利用して求めると、393年となる。
 @ 有銘鉄剣が出土した埼玉稲荷山古墳から古墳時代中期末のTK47型式の須恵器が出土しているが、通説では、「辛亥年」は471年とされ、TK47型式の須恵器の年代と稲荷山古墳の年代は5世紀末頃〜6世紀初め頃とされている。そして、5世紀末頃〜6世紀初め頃、すなわち古墳時代中期と後期の境の時期には、海面が低下していたされている(嶋竹秋・向坂鋼二「浜名湖新居町沖湖底遺跡調査概報」『考古学ジャーナル』128号など)。しかし、水月湖の海水準変動グラフによると、5世紀末頃まで海面は高かったが、この頃から低下し始め、560年頃にようやく上昇に転じている。そこで、古墳時代中期と後期の境の時期は、海面が大きく低下していた560年頃とみていい。とすると、TK47型式の終末は560年頃となる。


 A 田辺昭三氏は、『須恵器大成』で、「辛亥年」を471年とした「須恵器年表」を発表しているが、この年表によると、須恵器の最初の型式であるTK73型式の開始は440年代後半、TK47型式の開始は500年頃である。田辺昭三氏(『前掲書』)は、「辛亥年」を531年とした場合は、TK47型式を6世紀中葉頃まで下げて考えなければならないと書いている。@で述べたことと、この田辺昭三氏の見解と、中村浩氏(「須恵器による編年」『季刊考古学』10号)のT型式5段階(TK47型式)の期間が短いという見解とを合わせ考えると、TK73型式の開始が490年代後半、TK47型式が550年頃〜560年頃、「辛亥年」が531年であることが分かる(表A)。


 B 関川尚功氏は、「近畿・庄内土器の動向」(橿原考古学研究所附属博物館編『三世紀の九州と近畿』)で、「辛亥年」を471年、須恵器の出現を5世紀の真ん中前後と考えると、布留式の初現は4世紀真ん中前後になると述べているが、田辺昭三は、「三世紀の日本と三角縁神獣鏡の関係」(王仲殊他『三角縁神獣鏡の謎』)で、箸墓古墳の年代を4世紀第2四半期とみている。両氏の見解を合わせ考えると、「辛亥年」を531年とした場合は、箸墓古墳の年代は4世紀第4四半期の後半になると推定されるが、『日本書紀』には、崇神10年(紀元前88)9月に、「箸墓(はしのみはか)」が造られたとある。崇神10年は「癸巳年」であり、4世紀第4四半期の後半には393年の「癸巳年」がある。そこで、『日本書紀』は393年(癸巳年)に箸墓古墳が築造されたことを、干支を大きく繰り上げて紀元前88年(癸巳年)のこととして記録したとみられる。


そして、箸墓古墳の年代を393年とし、瓜生堂などの集落が水没したW期末を250年頃として、土器の編年から古墳時代の開始期を求めると、340年頃という答えが得られる(表A)
W期の開始を西暦100年頃としたのは、気候が大きく変化した時期だからである。甲元真之氏(「東アジアの動静からみた弥生時代の開始年代」春成秀爾・今村峯雄編『弥生時代の実年代』)は、「紀元後100年から250年前後の炭素年代の横ばい現象」は、太陽黒点の増大のための気候寒冷化によるとし、宇野隆夫氏(「年代」金関恕・佐原真編『弥生時代の研究』)は、「V期末からW期初頭にかけての時代は、河内平野における洪水時代の幕開けの時代である」と書いている。そして、W−4期末は、瓜生堂などの集落が水没した250年頃とみられるので、W−1〜4期は西暦100年頃〜250年頃と推定される。


表Aでは、寺沢薫氏(『王権誕生 日本の歴史02』)の見解に従い、弥生時代後期をX−T〜4期とY−T〜2期に分けた(ただし、寺沢薫氏の実年代観は私とは異なる)。
表Aの須恵器の各型式の年代は、私の最新の見解を示したものだが、日本最大の古墳である大阪府堺市の大山古墳(伝仁徳陵。墳丘長486m)からは、中村編年のT型式3段階の蓋杯が出土しているが、T型式3段階は田辺編年のTK208型式にあたる(楢崎彰一監修『日本陶磁の源流』)。大山古墳(伝仁徳陵)の年代は、「辛亥年」を531年とし、TK73型式を490年代後半〜500年代後半とみると、TK208型式期(510年代末〜〜530年頃)初頭の510年代末と推定される(表A)。そこで、大山古墳(伝仁徳陵)は継体時代(507〜531)に継体の寿陵として築造されたことが分かる。『日本書紀』の「仁徳紀」67年(379。己卯年)条には仁徳天皇が寿陵を造り始めたとあり、「仁徳紀」87年(399年。己亥年)条には天皇が死んで、百舌鳥野陵に葬られたとある。継体は『日本書紀』によると数え年82歳で死亡ししているので、この二つの記事は、継体が数え年50歳になった499年(己卯年)に大山古墳(伝仁徳陵)を寿陵として造り始めた史実と、519年(己亥年)に大山古墳(伝仁徳陵)が完成した史実を、それぞれ干支2運(120年)繰り上げて非公式に記録したとみられる。体積約140万立方mの大山古墳(伝仁徳陵)の工期は、『季刊大林組』20号によると「15年8ヶ月」と推算されているが、足掛け21年かかったわけである。

 

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