第1章 『日本書紀』の秘録・百済系倭国の建国年 

 1 百済系倭国の建国年と倭王武の在位年代 

「辛未年」で始まる「原・天皇紀」

次の表1に示したように、第7代天皇孝霊から第15代天皇応神までの天皇には、元年が辛未年、死亡年が庚午年である例がみられる。

 

 表1  『日本書紀』による天皇表(神武〜応神)

天皇

元年

死亡年

在位年数

1 神武   

前660(辛酉年)       

前585

76

2 綏靖

前581

前549

33

3 安寧

前549 

前511

38

4 懿徳

前510

前477

34

5 孝昭

前475

前393

83

6 孝安

前392

前291(庚午年)        

102

7 孝霊

前290 (辛未年)

前215

76

8 孝元

前214

前158

57

9 開化

前157 

前 98

60

10崇神

前 97

前 30

68

11垂仁

前 29

  70 (庚午年)

99

12景行

  71 (辛未年

130 (庚午年)

60

13成務

131 (辛未年)

190 (庚午年)

60

14仲哀

192

200

神功

201

269

69

15応神

270

310 (庚午年)

41

 

井原教弼氏(「古代王権の歴史改作のシステム」『東アジアの古代文化』42号)は、このことについて卓見を発表しているが、それを私なりにまとめると次のようになる。

@ 『日本書紀』は、第7代孝霊天皇から第15代応神天皇までの9人の天皇の在位年代を600年としており、神功皇后を第15代天皇とみて、孝霊天皇から応神天皇まで10人の天皇の在位年数を紀元前290年(辛未年)〜西暦310年(庚午年)とすると、10人の天皇の在位年数が合計600年、1人の平均在位年数が60年となる。また、『日本書紀』が第12代景行天皇の在位年数を辛未年(71)〜庚午年(130)、第13代成務天皇の在位年数を辛未年(131)〜庚午年(190)のそれぞれ60年としていることなどから、この10人の天皇(神功皇后を含む)の在位年数は、辛未年(即位年)〜庚午年(死亡年)の60年を原型として定めた後、細部を改変したものとみられる。

A ある時期、天皇系譜の首部は孝霊天皇であった。孝霊天の和風諡号は、『古事記』に大倭根子日子賦斗迩命(おほやまとねこひこふとにのみこと)、『日本書紀』に大日本根子彦太瓊尊(おほやまとねこひこふとにのみこと)とあるが、『日本書紀』30巻の最後を飾る持統天皇〔筆者注。持統天皇は702年に死亡。720年に成立した『日本書紀』にみえる和風諡号は高天原広野姫(たかまのはらひろのひめ)〕に、703年(大宝3)12月に贈られた和風諡号は大倭根子天之広野日女尊(おほやまとねこあまのひろのひめのみこと)とあり、持統天皇のこの和風諡号は、孝霊天皇の和風諡号ときれいに対応している。

首部  大倭根子日子賦斗迩(孝霊)

末尾  大倭根子天之広野日女(持統)

そこで、第1代神武天皇から第6代孝安天皇までの6代は後で追加されたものと解される。この6代が架上される前は、孝霊天皇が初代王であった。この「孝霊紀」の即位をそのまま「神武紀」に移し、「神武紀」の方は10年繰り上げて辛酉にした。孝霊天皇の死亡年は孝霊76年(丙戌)だが、一方、神武天皇の死亡年は神武76年(丙子)である。これは10年繰り上げたためであり、繰り上げる前は神武76年(丙戌)であったはずである。孝霊天皇は孝安天皇76年に26歳で皇太子になっており、これから計算すると死亡年齢は128歳となり、神武の死亡年齢127歳と1年の差があるが、これは単なる計算違いであろう。

私は、『応神陵の被葬者はだれか』(改訂版が『百済から渡来した応神天皇』)で、第15代天皇応神と百済王子昆支と倭王武が同一人物であることや、応神(昆支・武)が440年(庚辰年)に生まれ、506年(丙戌年)に死んだことを論証したうえ、この井原教弼氏の説を利用して、応神(昆支・武)が491年(辛未年)に百済系倭国を建国したと推定した。3年前に倭の五王の在位年代の解明に取り組んだところ、『日本書紀』が倭の五王の在位年代を非公式に正確に記録していることを知ることができたが、この秘録を説明する前に、私の応神=昆支=武説を知らない読者のために、ここで、応神(昆支・武)が崇神王家の入り婿であったことを簡単に述べておきたい。

崇神王家の入り婿応神天皇

井上光貞は、『日本国家の起源』などで、応神が崇神王家の入り婿であったと指摘している。私は大谷英二氏(「イリ系系譜の復原に関する一試論」『史正』3)が復原した崇神王朝(イリ王朝)の系譜と、『宋書』倭国伝の記事から崇神王朝の系譜を復原した(図1。詳細は『百済から渡来した応神天皇』を参照していただきたい)。

関和彦(「『宋書』倭国伝の再検討」『東アジアの古代文化』32)によると、『宋書』は各国の歴代の王について記録する場合、続き柄を書くことを原則にしており、前王との続き柄を示す語として「子」「弟」「孫」などが使用されており、「叔父」も散見するという。『宋書』倭国伝の場合も、珍は讃の弟、興は済の世子、武は興の弟と書かれている。しかし、済と珍との続き柄は記されていない(図2)。
 

図1 崇神王朝の系譜の復原

 

崇神--- 垂仁--- 讃(イニシキイリヒコ)---イホキイリヒコ --- 済(ホムダマワカ)--- ナカツヒメ
                   |                                                                                              | |
     

                       珍(ワカキニイリヒコ)
                          
応神(昆支・武)  


     図2 倭の五王の系譜(『宋書』)

    
          ---讃
         |

       ----珍

            済  ---- 興
                     |       

                        ----武           

 

『日本書紀』によると、イニシキイリヒコは、垂仁と后ヒバスヒメの間に生まれた第1子であり、第2子が景行、第5子がワカキニイリヒコである。私は、イニシキイリヒコが『宋書』にみえる倭王讃で、彼の死後、弟のワカキニイリヒコが即位し、『宋書』に珍と書かれたと考える。珍(ワカキニイリヒコ)の死後は、讃(イニシキイリヒコ)の子イホキイリヒコの子済(ホムダマワカ)が即位した。『宋書』が済と前王の珍との続き柄を記録していないのは、済(ホムダマワカ)が珍(ワカキニイリヒコ)の甥イホキイリヒコの子であったためとみていい。応神(昆支・武)は済(ホムダマワカ)の娘ナカツヒメの婿になったので、済(ホムダマワカ)の世子の興は応神(昆支・武)の義兄にあたる。崇神から応神(昆支・武)までの倭国王の系譜は次のようになる。

崇神―垂仁―讃(イニシキイリヒコ)―珍(ワカキニイリヒコ)―済(ホムダマワカ)―興―応神(昆支・武)

崇神の名ミマキイリヒコ、垂仁の名イクメイリヒコ、讃の名イニシキイリヒコ、珍の名ワカキニイリヒコ、済の名ホムダマワカは、いずれも『記紀』を編纂した律令政権が創作した名である。崇神王朝(実は加羅系倭王朝)は、王や王族にイリヒコ・イリヒメの名がつく人物が多いので、「イリ王朝」とも呼ばれている
 

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